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ルミナス市の中央駅を出た瞬間、俺は思わず足を止めた。
朝の光を受けた硝子張りの建物が、空まで届きそうなほど高く連なっている。建物と建物のあいだには半透明の通路が渡され、その内側を淡い青白い光が絶えず流れていた。
遠くから見れば、街の上空に何本もの光の川が浮かんでいるように見える。
通りには、朝から多くの人が行き交っていた。仕事へ向かうらしい人、制服姿の学生、荷車に薬草の籠を積んだ商人。焼き立てのパンの香りと、薬草を煮出した飲み物の少し苦い匂いが混ざり合い、村の朝とはまるで違う空気を作っている。
俺は胸の内ポケットに入れた封筒へ、そっと手を当てた。
白い紙に、細い金色の縁取り。
中央には、光を抱く獅子と薬草を組み合わせた紋章が刻まれている。
今朝、俺が育った孤児院へ届いたばかりの合格通知だ。
何度読んでも、書かれている文字は変わらない。
ルミエールアカデミー医療専門学校への入学を認めます。
「……本当に、合格したんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、封筒の角を指先で押さえた。
紙越しなのに、そこだけがまだ熱を持っているような気がする。
入学試験を終えた日から、ずっと落ち着かなかった。
答えを間違えたかもしれない問題が、いくつも頭に浮かんだ。あの設問は、もっと早く答えを出せたはずだ。最後まで迷った選択肢もある。試験官が答案を集めていく背中を見送ったあとで、急に正しい答えを思い出した気さえした。
終わった試験のことを、いつまでも考えても仕方がない。
分かっていた。
分かっていても、古い問題集を引っ張り出し、もう答えの出ない問いを解き直してしまう夜があった。
俺は、最初から何でもできる人間じゃない。
一度で覚えられないなら十回書いた。十回で足りなければ、覚えるまで繰り返した。
分厚い教本を前にして眠気に負けそうになった夜も、理解できない言葉ばかりが並ぶページを閉じたくなった日もある。それでも投げ出さなかった。
医療の道へ進みたかったからだ。
苦しそうにしている誰かのそばで、何もできずに立ち尽くすことが嫌だった。
知識があれば。
技術があれば。
少しでも落ち着いて、正しいことを考えられるようになれば。
自分にも、誰かを助けられる日が来るかもしれない。
そんな願いだけを頼りに、ここまで来た。
「浮かれてる場合じゃないな」
俺は小さく息を吐き、内ポケットから手を離した。
「まだ、入学を許されただけだ」
医者になったわけじゃない。
誰かを治せるようになったわけでもない。
むしろ今の俺には、知識も経験も足りないことだらけだ。制服を着たところで、急に立派な人間になれるわけじゃない。
それでも、何も始まっていなかった昨日までとは違う。
今日から俺は、夢へ向かうための準備を始められる。
合格通知には、入学までに制服と学用品をそろえるよう記されていた。
指定店は中央通りの角にあるらしい。
封筒の紋章へ指先を触れると、金色の光が細い線になって宙へ浮かんだ。線は人通りの多い通りへ向かい、迷わないように俺の進む先を示している。
「便利なもんだな」
そう呟きながら歩き出したものの、すぐに人の多さへ圧倒された。
村の市場なら、朝のうちに誰がどこで何を売っているのか全部分かる。けれどルミナス市では、目に映るものすべてが新しく、足を止めたくなる店ばかりだった。
窓いっぱいに色とりどりの薬草を並べた店。
光る文字を空中へ浮かべている書店。
小さな治療具らしきものを扱う金属店。
通りの脇には、白い花と青い葉を植えた花壇が続いていた。風が吹くたび、薬草らしい清涼な香りが街の空気へ混じる。
少し先の広場では、大きな映像板が朝の報せを流していた。
人の流れに押されながら横目で見たものの、文字はあまりにも早く切り替わっていく。俺には、青い光をまとった誰かの姿と、画面の端に映る赤い警告の印しか分からなかった。
何かの事故か、それとも病に関する報せなのか。
気にはなったが、立ち止まって見ている余裕はない。
今日は、買うべきものがある。
俺は歩調を早めた。
通りを曲がった先で、白い尖塔が見えた。
周囲の高い建物よりもさらに上へ伸びた塔は、朝日を受けて静かに光っている。その足元には深い緑の薬草園が広がり、いくつもの白い建物が整然と並んでいた。
ルミエールアカデミー医療専門学校。
遠くから眺めたことは何度もある。
けれど、今日の校舎は今までとまるで違って見えた。
もう、憧れるだけの場所じゃない。
あそこが、俺の学び舎になる。
そう思った瞬間、胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ別のものへ変わった。
怖い。
それでも、行きたい。
知らないことだらけの場所へ、自分の足で入っていきたい。
指定店は、学院の尖塔を正面に望む大通りの角に建っていた。
大きな窓には、ルミエールアカデミーの制服が飾られている。
灰色の上着。赤いインナーベスト。整った形のネクタイ。胸元には、獅子と薬草の紋章が金色に輝いていた。
その隣には、女子用らしい赤いリボンと長めのチェック柄のスカートも飾られている。
俺は店の前まで来て、また足を止めた。
窓に映った自分の姿が目に入ったからだ。
着古した上着。使い込んだ鞄。何度も縫い直した袖口。
華やかな街の中では、自分だけが別の場所から紛れ込んできたように見えた。
本当に俺が、あの制服を着るのか。
合格通知を受け取ったあとだというのに、まだ現実味がない。
「入らないと、何も始まらないだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、扉を押した。
鈴のような澄んだ音が鳴る。
店内には、新しい布と革、それから紙の匂いが満ちていた。
高い天井から吊るされた光球が、柔らかな明かりを落としている。壁には学年や寮ごとに分けられた制服が整然と並び、棚には筆記具、教本、実習用の上着、分厚い記録帳が置かれていた。
どれも新品で、どれもまだ俺の手になじんでいない。
「いらっしゃいませ」
奥の棚を整えていた店員が、こちらへ振り向いた。
淡い青色のエプロンを着た、落ち着いた雰囲気の女性だ。俺の手にある封筒の紋章を見ると、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ルミエールアカデミーにご入学の方でしょうか?」
「はい。ハヤト・キサラギです」
「ハヤト・キサラギ様。ご入学、おめでとうございます」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
合格通知を読んだときも嬉しかった。
けれど、誰かの口から「おめでとうございます」と言われると、それまで曖昧だった出来事が急に現実になる。
「……ありがとうございます」
声が少し低くなった。
照れくさくて、まともに店員の顔を見られない。
「では、こちらの読み取り板へ合格通知をお願いいたします」
言われたとおり、封筒を受付台の薄い板へ置く。
すると紋章から金色の光が広がり、店の奥の壁へ細かな文字が浮かび上がった。
制服一式。
実習用の上着。
筆記具。
基礎医学の教本。
薬草の形や性質を記録するための手帳。
通学用の鞄。
必要な品が、一つずつ表示されていく。
「……多いな」
思わず本音が漏れた。
全部持ち帰る自分の姿を想像する。両腕に箱を抱え、前も見えないまま公共車両へ乗ることになりそうだ。
店員はくすりと笑った。
「ご安心ください。ご購入いただいた品は、こちらの圧縮箱へお入れします」
彼女が受付台の下から取り出したのは、手のひらほどの小箱だった。
「この大きさに?」
「はい。家へ着いてから蓋を開ければ、元の大きさへ戻ります」
「だったら最初から、表示の横に書いておいてほしかったな」
つい口に出してから、失礼だったかと思った。
けれど店員は嫌な顔をせず、少し楽しそうに目を細めた。
「毎年、同じことをおっしゃる方がいらっしゃいます」
「俺だけじゃないのか」
「はい。皆さん、最初は驚かれます」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
俺だけが、何も知らない田舎者みたいに戸惑っているわけじゃない。
新しい場所へ来れば、誰だって最初は分からないことがある。
そう考えると、急に気が楽になった。
「筆記具は、いくつか種類がございます」
店員が棚から数本を取り出して、柔らかな布の上へ並べた。
「こちらは軽くて、長時間書いても手が疲れにくいものです。こちらは少し重みがありますが、細かな文字を書きやすくなっています」
俺は一本ずつ手に取って、指先へなじむ感触を確かめた。
試験勉強のときに使っていた鉛筆は、短くなるまで何本も使った。書き心地が悪いだけで、集中できない日があることも知っている。
「これにします」
選んだのは、派手な装飾のない細身の筆記具だった。
「実習でも使いやすそうです」
「堅実なものを選ばれるのですね」
「高いものを持っていても、使いこなせなければ意味がないので」
言ってから、自分でも少し生意気に聞こえた気がした。
だが店員は、今度は真剣な顔で頷いた。
「とても大切な考え方だと思います」
その一言が、なぜか心に残った。
次に手に取ったのは、厚い薬草記録帳だった。
表紙は深い紺色で、角には金色の補強が施されている。中を開けば、白い紙が何百枚も綴じられていた。
そこへ、薬草の名前、形、匂い、作用、扱うときの注意を書き込んでいくのだろう。
まだ何も書かれていない真っ白な紙を見ていると、少しだけ怖くなった。
知らない言葉ばかりが並ぶ授業。
周囲には、自分よりずっと賢く、ずっと経験のある生徒がいるかもしれない。
授業についていけなかったらどうする。
手帳のページを埋められなかったらどうする。
そんな不安が、また頭をもたげる。
俺はそっと表紙を閉じた。
「大丈夫だ」
小さく呟く。
不安だからといって、ここへ来た意味がなくなるわけじゃない。
分からないなら学べばいい。
書けないなら、書けるようになるまで続ければいい。
それは、今までだって同じだった。
「では、制服をご試着ください」
店員に案内され、俺は店の奥にある円形の台へ上がった。
足元に描かれた魔法陣が、淡い光を放ち始める。
細い光が靴先から肩までをゆっくりとなぞり、背丈や腕の長さ、肩幅を確かめるように何度か往復した。
その様子を見ていると、少しだけくすぐったい。
やがて壁に掛けられていた制服が、ひとりでに宙を滑ってきた。
「腕を通してみてください」
灰色の上着を受け取り、そっと袖へ腕を入れる。
布地が肩へ触れた瞬間、ほんのり温かくなった。
少し長かった袖が指先に合わせて縮み、肩の位置が自然に整っていく。背中や腰回りも、最初から俺の身体の形を知っていたかのようにぴたりとなじんだ。
赤いインナーベストを着る。
最後に、赤いネクタイが胸元へ収まる。
首元を整えられたとき、俺は思わず息を止めた。
「肩を回してみてください。腕を上げても、窮屈ではありませんか?」
言われたとおり、ゆっくり肩を回す。
腕を上げ、身体をひねる。
「……動きやすい」
「実習や治療の補助に入ることも考えて、動きやすく作られているんです」
目の前の鏡に、全身が映し出された。
そこにいるのは、見慣れた自分のはずだった。
センターで分かれた茶色の髪。
少し鋭く見える目。
緊張すると、すぐ口数が減る癖。
何も変わっていない。
それなのに、鏡の中の俺は、今までとは少し違う人間に見えた。
胸元には、金色の獅子と薬草の紋章がある。
赤い糸で縁取られたその紋章は、俺が獅子寮へ所属することを示していた。
おそるおそる触れてみる。
指先に伝わる刺繍の硬さが、合格したという事実を、ようやく現実のものに変えてくれた。
「俺が、これを着るのか……」
嬉しい。
そう言えばいいだけなのに、照れくさくて、出た声は妙に低かった。
店員が鏡越しに微笑む。
「とてもお似合いです」
「まだ、制服に着られてるだけです」
「そんなことはありません。しっかりなじんで――」
そこで、店員の言葉が止まった。
鏡越しに見た彼女の顔から、穏やかな笑みが消えている。
驚いたように、俺の顔と、受付台に置かれた合格通知を見比べていた。
合格通知の紋章は、もう役目を終えたはずだ。
それなのに金色の獅子だけが、かすかに脈打つような光を宿している。
「どうかしましたか?」
俺が尋ねると、店員ははっと息をのんだ。
次の瞬間には、何事もなかったように笑顔を作っていた。
「いえ。その……失礼しました」
けれど、視線だけはまだ俺の胸元に残っている。
まるで、制服の紋章ではなく、その奥にある何かを見ているようだった。
「あの動画の……医療戦士の。あぁ、なんでもありません」
「医療戦士?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。
「普通の医者でいいのに」
俺はただ、医療を学びたいだけだ。
誰かの苦しみを少しでも減らせる人間になりたいだけだ。
戦うだとか、そんな大げさな言葉を向けられる理由なんて、どこにもない。
店員は一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
けれどすぐに視線を伏せ、丁寧に頭を下げる。
「申し訳ありません。今の言葉は、どうかお気になさらないでください」
「いや、気になるだろ」
思わず言い返した、そのときだった。
「制服に着られているな」
背後から、冷たい声が落ちた。
さっきまで胸に残っていた不思議な感覚が、一瞬で引いていく。
鏡越しに振り返ると、少し離れた場所に同じ年ごろの男が立っていた。
隙なく整えられた黒髪。
皺ひとつない黒い上着。
上質な生地は店内の光を柔らかく反射し、右手の指には、家柄を見せつけるような銀色の指輪が光っている。
口元には、相手を最初から自分より下だと決めつけている者特有の、冷たい笑みが浮かんでいた。
見覚えがある。
入学試験の会場で、何度か視線がぶつかった男だ。
試験の結果が掲示されたとき、俺の名前が自分より上にあることを見て、露骨に表情を歪めていた。
あの目を、忘れるはずがない。
「……マルクス・ヴェルナー」
俺が名前を呼ぶと、男は満足そうに目を細めた。
「覚えていたか。光栄だな、ハヤト・キサラギ」
「なんだよ」
「なんだ、とは失礼だな。せっかく新しい制服を見に来てやったんだ。田舎者が身の丈に合わない服を着ていると、あまりにも目立つからな」
マルクスはゆっくりと近づいてきた。
値踏みするような視線が、俺の頭から足元までをなぞる。
「よく似合っているじゃないか。服だけはな」
「用がないなら、あっちへ行け」
「ずいぶん余裕だな。筆記試験で少し点を取った程度で、自分が選ばれた人間だとでも思っているのか?」
「そんなことは思ってない」
「どうだかな。結果を見たときは、随分と得意そうな顔をしていた」
「合格したら嬉しいだろ。普通は」
マルクスの口元が、わずかに引きつった。
俺が淡々と答えるほど、こいつの機嫌は悪くなっていく。
「お前の成績など、ただの偶然だ。試験問題との相性がよかっただけのことを、実力だと勘違いするな」
「偶然で取れる点なら、お前も取ればよかっただろ」
マルクスの目から笑みが消えた。
店内を流れていた穏やかな音楽が、不自然なほど遠く聞こえる。
「調子に乗るなよ」
「乗ってない。事実を言っただけだ」
「孤児院で古い教本を読んでいた程度のお前が、俺より高い点を取れるはずがない」
低く押し殺した声から、隠し切れない苛立ちが滲んでいた。
やはり、こいつが気にしているのは試験の成績だ。
自分より下だと思っていた俺の名前が上にあった。
それが許せないのだろう。
「何を読んで勉強しようが、正しい答えを書けば点は取れる」
「その生意気な口を、いつまで利いていられるだろうな」
マルクスは俺の胸にある紋章へ目を向け、鼻で笑った。
「そもそも、ルミエールアカデミーに入ったところで何になる。あそこは、聞こえのいい理想ばかりを並べる偽善者の集まりだ」
「……何?」
「世界中の病人を救う。医療に身分は関係ない。知識と光の力で未来を変える。よくもまあ、あれほど恥ずかしい綺麗事を並べられるものだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
制服を着たときに感じた不安とは違う。
腹の底から、熱いものが湧き上がってくる。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
「当然だ」
マルクスは俺の感情をわざと逆なでするように、口元を歪めた。
「治る見込みの薄い者へ時間を使い、何の見返りもない相手に手を差し伸べる。そんな行為に何の意味がある? 救う価値のある者を選び、確実な成果を出す方がよほど合理的だ」
「救う価値だと?」
「限られた薬も時間も、役に立つ者へ使うべきだと言っている。誰も彼も助けようとするから、結局は何も守れない。自分たちは正しい人間だと満足したいだけの連中を、偽善者と呼んで何が悪い」
俺は拳を握った。
爪が手のひらへ食い込む。
ここで怒鳴れば、こいつの思うつぼだ。
そう分かっているのに、聞き流すことはできなかった。
「最初から助からないと決めつけて、見捨てる方が正しいっていうのか」
「現実を理解していると言っているんだ」
「それは現実じゃない。ただ、自分が何もしたくない理由を並べてるだけだろ」
「田舎者が、俺に説教するつもりか?」
「説教じゃない。お前の言ってることが気に入らないだけだ」
マルクスは冷たい視線を俺へ向けたまま、さらに一歩近づいた。
そして、指先で制服の紋章を軽く弾いた。
「こんな紋章に、何の価値がある。あの学校も、そこに集まる連中も、俺から見れば――」
「ルミエールアカデミーをバカにするな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
店内の空気が震えたように感じた。
気づいたときには、俺はマルクスの手首をつかんでいた。
指先が白くなるほど強く握りしめている。
マルクスは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに挑発するような笑みを浮かべた。
「なんだ、その目は。俺を殴るつもりか?」
「その口を閉じろ」
「図星を突かれて腹を立てただけだろう。お前だって分かっているはずだ。どれだけ学んでも、救えない命はある。理想だけで病気が消えるわけじゃない」
「だから学ぶんだろ!」
胸に押し込めていた思いが、一気に言葉となってあふれた。
「何も知らないまま諦めるのが嫌だから、俺はあそこへ行く。今の俺にはできないことばかりだ。間違えるかもしれないし、手を伸ばしても届かないことだってあるかもしれない。それでも、助からないかもしれないって理由で、最初から何もしないよりはましだ!」
「綺麗事だな」
「綺麗事で何が悪い」
マルクスの目を、まっすぐに見返す。
「知識が足りないなら学ぶ。判断を間違えたなら、どうして間違えたのか考える。今の俺が何もできないからこそ、できるようになるために学校へ行くんだ。何もする気がないお前に、あの学び舎を笑う資格はない」
周囲の空気が一気に騒がしくなった。
近くにいた客たちが距離を取り、あちこちで動揺した声が上がる。店員も、困ったようにこちらを見ていた。
騒ぎが広がっている。
頭へ上っていた血が、少しだけ引いた。
俺は何をしている。
このまま殴り合いになれば、店に迷惑をかける。入学前から問題を起こしたことがアカデミーへ伝われば、せっかく手にした合格を失うかもしれない。
何より、感情のままに動いて周囲が見えなくなるようでは、医療を学ぶ以前の問題だ。
患者を前にしたときも、思いどおりにならないことはあるだろう。
焦ることも、怖くなることも、腹が立つこともあるかもしれない。そのたびに冷静さを失っていたら、正しい判断などできるはずがない。
俺は奥歯を噛みしめ、マルクスの手首を放した。
「……もういい」
マルクスはつかまれていた手首をさすり、薄く笑った。
「怖くなったか?」
「違う」
乱れていたネクタイを直し、制服の上着を手で払う。
「ここでお前を殴っても、何も変わらない。それに、この制服を着たまま問題を起こしたくない」
「自分の立場を理解する程度の頭はあるらしいな」
「お前は最後まで一言多いんだよ」
「覚えておけ、ハヤト・キサラギ」
マルクスの声には、最後まで相手を見下す響きがあった。
「努力すれば何にでもなれると思っている人間ほど、現実を知ったときの壊れ方は惨めだ。お前があの学校で、どこまで綺麗事を貫けるか見ものだな」
「俺がどうなるかは、お前が決めることじゃない」
「なら、せいぜい足掻け。偽善者の学び舎でな」
マルクスは冷たい笑みを残し、その場から離れていった。
店内のざわめきが少しずつ収まっていく。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
身体の奥では、まだ怒りがくすぶっている。拳を開こうとしても、指がうまく動かなかった。
深く息を吸う。
新しい布と紙の匂い。薬草を使った香料の、わずかに甘い香り。店内を流れる穏やかな音楽。
ひとつずつ確かめるように周囲へ目を向け、ようやく呼吸を整えた。
試着台の鏡に映った顔は、ひどいものだった。
眉間には深い皺が寄り、頬は赤くなっている。名門校の制服を着ているのに、少しも立派には見えない。
「何やってるんだ、俺は……」
悔しさが込み上げた。
マルクスに言われたことだけではない。
挑発に乗り、周囲が見えなくなった自分が情けなかった。
入学試験に合格しただけで、少しは前へ進めたつもりになっていた。けれど実際には、知識以外にも身につけなければならないものがいくつもある。
制服を着れば、その瞬間から理想の医療者になれるわけではない。
怖くても考える力。
腹が立っても周囲を見る冷静さ。
自分一人の感情より、守るべきものを優先する強さ。
今の俺には、どれも足りていなかった。
それでも、胸にある紋章を外したいとは思わない。
俺は制服を脱ぎ、汚れや傷がついていないことを確かめた。上着の皺を手のひらで丁寧に伸ばし、赤いネクタイと一緒に箱へ収める。
その様子を、さっきの店員が黙って見守っていた。
箱の蓋を閉じたところで、彼女はそっと圧縮の術をかける。
制服も教本も筆記具も、光に包まれながら手のひらほどの箱へ収まっていった。
「お騒がせして、すみませんでした」
俺が頭を下げると、店員は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お気になさらないでください。ですが、どうかお怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
「そうですか」
彼女はほっとしたように笑った。
その表情を見て、さっきまでの怒りがさらに恥ずかしくなる。
「……あの、さっきの言葉」
鞄へ圧縮箱をしまいながら、俺は尋ねた。
「医療戦士って、何なんですか」
店員の指先が、わずかに止まった。
答えを待った。
けれど彼女は、すぐには口を開かなかった。
「今はまだ、知らないままでもいいのかもしれません」
「それ、答えになってませんよね」
「そうですね」
困ったように微笑んだあと、彼女は受付台の上へ視線を落とした。
「ただ、キサラギ様。どんなことがあっても、今日おっしゃった言葉を忘れないでください」
「今日、俺が言った言葉?」
「はい。最初から何もしないよりはましだ、と」
胸の奥が、わずかに揺れた。
自分では、ただマルクスへ言い返しただけだと思っていた。
けれど店員は、その言葉を大事なもののように受け取っている。
「忘れません」
俺は短く答えた。
それ以上、答えをもらうことはできなかった。
店を出ると、ルミナス市の空は茜色に染まり始めていた。
西へ傾いた日差しが硝子張りの建物へ反射し、街全体が巨大な光の結晶のように輝いている。半透明の通路を流れる光は朝よりも鮮やかになり、夕暮れの空へ細い帯を描いていた。
大通りの先には、ルミエールアカデミーの白い尖塔が見える。
夕日を受けた校舎は赤金色に染まり、朝に眺めたときよりも遠く、そして大きく感じられた。
俺は鞄の上から、制服が入った箱へ触れた。
合格通知を受け取っただけでは、まだ何者にもなれていない。
あの制服にふさわしい人間になれるかどうかは、これからの俺次第だ。
マルクスの言葉が、耳の奥に残っている。
どれだけ学んでも、救えない命はある。
理想だけで病気が消えるわけではない。
そんなことは、俺だって分かっている。
努力すれば、必ず望んだ結果を得られるとは限らない。必死に手を伸ばしても届かず、自分の無力さを突きつけられる日が来るのかもしれない。
けれど、救えないかもしれないことと、救おうとしないことは違う。
何も知らないまま諦めたくない。
できないことを、できないままで終わらせたくない。
俺は夕暮れの中に立つ学び舎を、まっすぐに見上げた。
「見てろよ」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。
次にマルクスと会ったとき、胸を張って言い返せる自分でありたい。
俺はここで学ぶ。
知識を身につけ、何が正しいのかを自分の目で確かめる。
そして、いつか誰かの手を取れる人間になる。
胸の内ポケットで、合格通知の紋章がかすかに熱を持った。
医療戦士。
あの店員が口にした、聞き慣れない言葉が頭から離れない。
医者を目指す俺に、どうしてそんな呼び名が向けられたのか。
その答えを、まだこのときの俺は知らなかった。
「やって……ません」 喉の奥に張りついた息を、声と一緒に無理やり押し出した。 視界の端では、白い霞がゆっくりと渦を巻いている。円形に並んだ机も、その向こうに立つ生徒たちも、薄い膜を隔てたように輪郭がぼやけていた。息を吸っても胸の途中で止まり、次の呼吸へうまくつながらない。額から流れた汗が頬を伝い、顎の先から答案用紙へ落ちた。 机の縁をつかむ指先が震えていた。 それでも、俺は教授から目を逸らさなかった。「そんな状態だからカンニングした。違うか!」 教授の鋭い声が、広い試験会場を震わせる。 胸の奥を締めつける圧迫感よりも、その言葉のほうが深く突き刺さった。 身体が思うように動かないことと、心まで折れることは同じではない。 俺は椅子の肘掛けを押し、立ち上がろうとした。膝に力が入らず、椅子の脚が床を大きく擦る。上半身が傾いたが、机へ手をつき、どうにか踏みとどまった。 白い霞の中央に、教授の険しい顔を捉える。「俺は……やってません。体調が悪いからって、不正に逃げたりしない」 声は掠れていた。呼吸も途切れていた。 それでも、言葉だけは揺らがせなかった。 会場のあちこちで交わされていた囁きが、わずかに静まる。 教授の横では、マルクスが偽の答案用紙を掲げていた。冷たく整った顔には、勝ち誇った笑みも、焦りも浮かんでいない。ただ、折り畳まれた紙を挟む指先にだけ、わずかに力がこもっていた。「口では何とでも言える。現に、お前の袖から――」「待ってください」 マルクスの言葉を遮った声は、会場の外周に近い席から聞こえた。 鹿寮の生徒が一人、静かに立ち上がっている。その手には小型の撮影端末が握られていた。 霞む視界を細めた瞬間、俺はその生徒を思い出した。 廊下や講義室で、何度か俺へカメラを向けていた人物だ。俺が視線を返すと、近づいてくるでも話しかけるでもなく、端末を下ろして人混みの向こうへ消えていた。 鹿寮の生徒は名乗らず、教授の前まで歩いていった。「これを確認してください」 差し出された端末を、教授は険しい表情のまま受け取った。 やがて、試験会場正面の大型表示板に映像が映し出される。 映っているのは、試験が始まって間もない会場だった。 画面の中央付近に、机へ向かう俺の姿がある。ペンを握る手はすでに震え、何度か目元を押さえていた。その斜め後ろ
「なんの騒ぎだ!」 張り詰めた空気を切り裂くような声が、医療棟の廊下に響き渡った。 床を打つ靴音が近づいてくる。俺は両腕を広げたまま、ミナとマルクスの間に立っていた。 胸の奥が狭い。息を吸っても、必要な量の空気が入ってこない。視界は薄い水膜に覆われ、窓から差し込む昼の光が白く滲んでいる。それでも、ミナへ伸ばされたマルクスの手と、その冷たい眼差しだけは見失わなかった。 背後から、ミナの浅い呼吸が聞こえる。 守らなければ。 その思いが、震えかけた膝を床へつかせなかった。 駆けつけた教授は、俺たちの顔を順に見た。マルクスの伸ばした手、進路を塞ぐ蛇寮の生徒たち、その前に立つ俺、検査室の扉を背にしたミナ。短い沈黙の間に、目の前の状況を正確に読み取っていく。「ミナ、何があった?」 教授に尋ねられ、ミナは胸元へ添えていた手をゆっくり下ろした。顔色は青白い。けれど、俯くことなく、自分の言葉で答えた。「検査室へ行こうとしたら、マルクスが前に立って……退いてほしいと何度も言いました。でも、聞いてくれませんでした」「触れられたか?」「いいえ。ハヤトが間に入ってくれたから」 その声には微かな震えが残っていた。それでもミナの瞳は逃げず、マルクスへ向けられている。 教授の表情が険しくなった。「マルクス・ヴェルナー! これはどういうことだ! 入院中の未成年患者に詰め寄り、本人の拒絶を無視して接触を強要しようとした。蛇寮を十点減点する!」 廊下の空気が、一瞬で凍りついた。 取り巻きたちが互いの顔を見る。四寮の得点争いが激しさを増している今、十点は小さな処分ではない。しかも獅子寮と蛇寮の差を大きく変える減点だ。「十点ですと?」 マルクスは声を荒らげなかった。 白い指先をゆっくり引き戻し、制服の袖口を整える。その動作には、自分が叱責される側であることなど受け入れていない傲慢さが滲んでいた。「俺は彼女の状態を確認しようとしただけです。医療を学ぶ者として、患者の症状に関心を持つのは当然でしょう」「本人が拒んでいる。それだけで十分だ」「病気で不安定になっている者の言葉を、すべて正しいと判断するのですか?」 ミナの肩が小さく揺れた。 俺の胸の奥で怒りが熱を持つ。病気を理由に、ミナの意思まで曖昧なものとして扱う。その言葉だけは聞き流せなかった。 だが、口を開く
「本当に行くつもりなのか?」 テオの声が、朝の獅子寮談話室に落ちた。 長い窓から差し込む光はまだ淡く、磨かれた床の上をゆっくりと伸びていた。暖炉には昨夜の火の名残がわずかに赤く残り、焼きたてのパンと紅茶、古い木製家具の匂いが混ざっている。 いつもなら心を落ち着かせてくれる朝の匂いだった。 けれど、今の俺には、目の前の光景すらまともに見えていなかった。 窓も机も椅子も、輪郭が水に溶けたように揺らいでいる。正面に立っているテオの顔も、髪の色と制服の形でかろうじて見分けられるだけだ。視界の端には白い靄がかかり、ときおり光の粒がちらついた。「行くよ」 俺はそう答え、制服の袖口へ手を伸ばした。 小さなボタンを留めようとしても、指先に力が入らない。震える親指と人差し指の間から、ボタンが何度も逃げていく。三度目に爪が布をかすったところで、とうとう手を下ろした。 ただそれだけの動作で、呼吸が乱れていた。 胸の奥へ冷たい布を詰め込まれたように、深く息を吸えない。浅い呼吸を何度も繰り返しているうちに、首筋へ汗が浮かんだ。「無理だろ、それ」 テオは俺の前まで来ると、顔をのぞき込んだ。「顔色、朝の壁より白いぞ。今日は休め。講義の内容なら俺が聞いてくる」「お前、昨日の講義で半分寝てただろ」「あれは目を閉じて集中してたんだ」「寝てたわよ」 ソファの向かい側で、エマが冷静に言った。 彼女は湯気の立つカップを机へ置き、俺のそばまで来た。ひんやりした指が手首へ触れる。視界がぼやけていても、彼女の表情が険しくなったことは、わずかに止まった呼吸でわかった。「ハヤト、手を握ってみて」 言われたとおりに指を曲げる。 けれど、エマの手を包むどころか、指先が掌へ触れる前に震え始めた。「昨日より悪くなってる」「まだ歩けるよ」「歩けるかどうかを聞いてるんじゃないわ。視界は?」「少し、ぼやけてる」「少し?」 エマの声が低くなった。 俺は答えず、窓の方を見た。外に木々があることはわかる。だが、枝も葉も一つの緑色の塊に見えた。「……テオの顔が、ほとんど見えない」「俺のこの整った顔が見えないなんて重症だな」「そこで冗談を言わないの」 エマに叱られ、テオは口を閉じた。それでも俺の肩へ置かれた手には、普段の気楽さとは違う強い力が込められていた。「部屋に戻ろう、ハ
「講義を抜けるったって、どうやって抜けるんだよ」 俺が声を潜めると、テオは待っていましたとばかりに身を乗り出した。 講義前の獅子寮の談話室は、いつになく騒がしい。長机を囲んで課題を見せ合う声に、教本の紙をめくる音が重なっている。大きな窓から差し込む朝の光が、使い込まれた木製家具の表面を柔らかく照らしていた。温かい茶と焼いたパン、それに古い木の匂いが混ざり合っている。「俺がハヤトに変装して講義受けるぜ!」 胸を張ったテオの宣言に、俺は言葉を失った。 向かいに座るエマは、持ち上げかけたカップを静かに置いた。「いつも通り斜め上ね」「待て。見た目も声も違うだろ」「髪の色は近い。背丈もほとんど同じ。制服を同じように着れば、後ろから見ただけじゃ分からないって」「講義は後ろ姿だけで受けるものじゃない」「もっと現実を見なさい、テオ」 俺とエマから同時に否定されても、テオは少しもひるまなかった。「でも、ミナの様子が心配なんだろ? 面会時間まで待ってたら、今日の講義が全部終わっちまう。ハヤトの顔に、俺は今すぐ行きたいですって書いてあるぜ」 思わず頬へ手を当てそうになり、途中で止めた。そんなものが本当に書いてあるはずはない。それでも、否定の言葉は出てこなかった。 エマが俺を見つめる。厳しさの奥に、わずかな気遣いを含んだ目だった。「昨日、あなたの力でミナの光の病の進行は遅くなった。でも、完治したわけではないわ」「ああ。分かってる」「さらに治療を進めるには、あなたが医療戦士の力を安定させる必要がある。それに、光の病そのものについても研究を重ねないといけない。焦って力を使えば、何が起こるか分からないのよ」 冷静な言葉が胸に刺さる。正しいからこそ、反論できなかった。「それでも、顔を見ておきたいんだ」 自分でも驚くほど低い声が出た。「昨日より苦しくなっていないか。熱は下がったのか。ちゃんと眠れたのか。それだけ確かめたら戻る」「そう言って、あなたは放っておけなくなるでしょうね」 エマは小さく息を吐いた。けれど、拒むように教本を閉じるのではなく、膝の上から一冊のノートを取り上げた。「仕方ないわね。今回だけよ」「さすがエマ!」「喜ぶのは早いわ。テオ、あなたが解剖学の講義で指名されたら、この計画はそこで終わりだから」「俺の知識を甘く見るなよ。骨はだい
写真を制服の内ポケットへしまうと、俺は獅子寮の談話室を飛び出した。 重い扉が閉じる音を背中に聞いた瞬間、足が勝手に速くなる。 午後の授業を終えた学生たちが行き交う廊下を、テオとエマが追ってきた。開いたままの教本を抱えて歩く者、実習で使った薬草籠を提げた者、寮対抗戦の話で盛り上がっている者。いつもなら耳に入るはずの声が、今日は厚いガラス越しに聞いているように遠かった。 頭の中には、医療棟のことしかない。 あそこに、ミナがいるかもしれない。 その可能性に追いつこうとするように、俺の足はさらに速くなった。「ハヤト、教本!」 テオの声と同時に、脇へ挟んでいた教本が滑り落ちた。 床へぶつかる寸前で、テオが片手を伸ばして受け止める。勢いよく屈んだせいで、彼が抱えていた自分の教本まで傾いた。「あ……悪い」「いいって。今のハヤトに持たせたら、医療棟へ着くまでに全部落としそうだし」「自分で持てる」 手を伸ばしたが、テオは教本を返さなかった。「持てるのと、ちゃんと持っていられるのは別だろ」 いつもなら言い返していたかもしれない。だが今は、その時間さえ惜しかった。 俺が再び歩き出すと、エマが隣へ並んだ。彼女の歩調は落ち着いていたが、決して遅くはない。俺が走り出さないぎりぎりの速さに合わせている。「ハヤト。一度、呼吸を整えて」「平気だ」「平気な人は、そんなふうに肩で息をしないわ」 言われて初めて、胸が苦しいほど上下していることに気づいた。 まだ医療棟へ着いてもいない。階段を駆け上がったわけでもない。それなのに、細い紐で喉を締められたように息が通らなかった。 ミナに会えるかもしれないという期待。 もう手遅れかもしれないという恐怖。 二つの感情が胸の中でぶつかり合い、心臓を両側から握り潰そうとしている。「落ち着いている時間なんてない」「急ぐことと、何も見えなくなることは違うわ」 エマは俺を止めなかった。「医療棟へ入ったら、あなたが話をしなくてはいけない場面もある。今のままでは、自分の名前を伝えるだけでも息が切れるわ」 俺は唇を噛み、鼻から深く息を吸った。 胸の奥まで届かない。それでも、二度、三度と繰り返すうちに、喉を塞いでいたものが少しだけ緩んだ。「昨日まで何も分からなかったんだ」 歩きながら、俺は呟いた。「探しても、手紙を送っ
授業を終えた俺は、獅子寮の郵便受けに届いていた一通の封筒を手に、談話室へ戻った。 窓から差し込む夕方の光が、長机の上に積まれた教本を淡い金色に染めている。使い始めてまだ数日しか経っていない本の背には、もう何度も開いた跡がついていた。慣れない授業に疲れた学生たちは、椅子に深く腰かけたり、温かい飲み物を片手に今日の課題について話したりしている。 紙とインクの匂いに、誰かが淹れた薬草茶の香りが混じっていた。 けれど、俺は談話室の空気をほとんど感じていなかった。 目は、手の中の封筒に引きつけられていた。 俺の名前が、間違いなく書かれている。 寮の郵便受けを開けた瞬間から、胸の奥で鼓動が速くなっていた。今まで一度も手紙をくれなかった相手の顔が、なぜか真っ先に浮かんだ。「ミナ……?」 声にした途端、期待が急に形を持った。 俺の居場所を知って、連絡をくれたのかもしれない。何も言わずにいなくなったことを謝る手紙かもしれない。あるいは、たった一言だけでも、元気だと知らせてくれたのかもしれない。 返事をどう書こう。 そんなことまで考えながら封筒を裏返し、俺は息を止めた。 差出人の欄に書かれていたのは、ミナの名前ではなかった。 ミナを引き取った里親の名前だった。 胸の高鳴りが、別のものへ変わる。「どうした、ハヤト。郵便受けの前からずっと、その手紙とにらめっこしてるけど」 長椅子に座っていたテオが、開いていた教本から顔を上げた。その向かいでは、エマが小さな紙片に授業の要点を書き出している。 俺は二人のいる長机まで歩き、空いている椅子を引いた。「ミナの里親からだ」 テオの表情から、疲れを隠すような笑みが消えた。 エマもペンを止める。「以前、話していた女の子ね」「ああ」 封筒の端に指をかけたものの、すぐには開けられなかった。 もし、中に望んでいない知らせが入っていたら。 その考えが頭をよぎる。けれど、開けずにいれば何も知ることができない。俺は浅く息を吸い、紙を傷つけないように封を切った。 便箋を探して指を差し入れる。 触れたのは、厚みのある一枚の紙だけだった。「写真……?」 取り出したものを見て、テオが身を乗り出す。 手紙はなかった。 説明も、短い伝言さえも入っていない。 写真に写っていたのは、白い壁と淡い青色の窓が並ぶ大きな建







