INICIAR SESIÓN
ルミナス市の中央駅を出た瞬間、俺は思わず足を止めた。
朝の光を受けた硝子張りの建物が、空まで届きそうなほど高く連なっている。建物と建物のあいだには半透明の通路が渡され、その内側を淡い青白い光が絶えず流れていた。
遠くから見れば、街の上空に何本もの光の川が浮かんでいるように見える。
通りには、朝から多くの人が行き交っていた。仕事へ向かうらしい人、制服姿の学生、荷車に薬草の籠を積んだ商人。焼き立てのパンの香りと、薬草を煮出した飲み物の少し苦い匂いが混ざり合い、村の朝とはまるで違う空気を作っている。
俺は胸の内ポケットに入れた封筒へ、そっと手を当てた。
白い紙に、細い金色の縁取り。
中央には、光を抱く獅子と薬草を組み合わせた紋章が刻まれている。
今朝、俺が育った孤児院へ届いたばかりの合格通知だ。
何度読んでも、書かれている文字は変わらない。
ルミエールアカデミー医療専門学校への入学を認めます。
「……本当に、合格したんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、封筒の角を指先で押さえた。
紙越しなのに、そこだけがまだ熱を持っているような気がする。
入学試験を終えた日から、ずっと落ち着かなかった。
答えを間違えたかもしれない問題が、いくつも頭に浮かんだ。あの設問は、もっと早く答えを出せたはずだ。最後まで迷った選択肢もある。試験官が答案を集めていく背中を見送ったあとで、急に正しい答えを思い出した気さえした。
終わった試験のことを、いつまでも考えても仕方がない。
分かっていた。
分かっていても、古い問題集を引っ張り出し、もう答えの出ない問いを解き直してしまう夜があった。
俺は、最初から何でもできる人間じゃない。
一度で覚えられないなら十回書いた。十回で足りなければ、覚えるまで繰り返した。
分厚い教本を前にして眠気に負けそうになった夜も、理解できない言葉ばかりが並ぶページを閉じたくなった日もある。それでも投げ出さなかった。
医療の道へ進みたかったからだ。
苦しそうにしている誰かのそばで、何もできずに立ち尽くすことが嫌だった。
知識があれば。
技術があれば。
少しでも落ち着いて、正しいことを考えられるようになれば。
自分にも、誰かを助けられる日が来るかもしれない。
そんな願いだけを頼りに、ここまで来た。
「浮かれてる場合じゃないな」
俺は小さく息を吐き、内ポケットから手を離した。
「まだ、入学を許されただけだ」
医者になったわけじゃない。
誰かを治せるようになったわけでもない。
むしろ今の俺には、知識も経験も足りないことだらけだ。制服を着たところで、急に立派な人間になれるわけじゃない。
それでも、何も始まっていなかった昨日までとは違う。
今日から俺は、夢へ向かうための準備を始められる。
合格通知には、入学までに制服と学用品をそろえるよう記されていた。
指定店は中央通りの角にあるらしい。
封筒の紋章へ指先を触れると、金色の光が細い線になって宙へ浮かんだ。線は人通りの多い通りへ向かい、迷わないように俺の進む先を示している。
「便利なもんだな」
そう呟きながら歩き出したものの、すぐに人の多さへ圧倒された。
村の市場なら、朝のうちに誰がどこで何を売っているのか全部分かる。けれどルミナス市では、目に映るものすべてが新しく、足を止めたくなる店ばかりだった。
窓いっぱいに色とりどりの薬草を並べた店。
光る文字を空中へ浮かべている書店。
小さな治療具らしきものを扱う金属店。
通りの脇には、白い花と青い葉を植えた花壇が続いていた。風が吹くたび、薬草らしい清涼な香りが街の空気へ混じる。
少し先の広場では、大きな映像板が朝の報せを流していた。
人の流れに押されながら横目で見たものの、文字はあまりにも早く切り替わっていく。俺には、青い光をまとった誰かの姿と、画面の端に映る赤い警告の印しか分からなかった。
何かの事故か、それとも病に関する報せなのか。
気にはなったが、立ち止まって見ている余裕はない。
今日は、買うべきものがある。
俺は歩調を早めた。
通りを曲がった先で、白い尖塔が見えた。
周囲の高い建物よりもさらに上へ伸びた塔は、朝日を受けて静かに光っている。その足元には深い緑の薬草園が広がり、いくつもの白い建物が整然と並んでいた。
ルミエールアカデミー医療専門学校。
遠くから眺めたことは何度もある。
けれど、今日の校舎は今までとまるで違って見えた。
もう、憧れるだけの場所じゃない。
あそこが、俺の学び舎になる。
そう思った瞬間、胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ別のものへ変わった。
怖い。
それでも、行きたい。
知らないことだらけの場所へ、自分の足で入っていきたい。
指定店は、学院の尖塔を正面に望む大通りの角に建っていた。
大きな窓には、ルミエールアカデミーの制服が飾られている。
灰色の上着。赤いインナーベスト。整った形のネクタイ。胸元には、獅子と薬草の紋章が金色に輝いていた。
その隣には、女子用らしい赤いリボンと長めのチェック柄のスカートも飾られている。
俺は店の前まで来て、また足を止めた。
窓に映った自分の姿が目に入ったからだ。
着古した上着。使い込んだ鞄。何度も縫い直した袖口。
華やかな街の中では、自分だけが別の場所から紛れ込んできたように見えた。
本当に俺が、あの制服を着るのか。
合格通知を受け取ったあとだというのに、まだ現実味がない。
「入らないと、何も始まらないだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、扉を押した。
鈴のような澄んだ音が鳴る。
店内には、新しい布と革、それから紙の匂いが満ちていた。
高い天井から吊るされた光球が、柔らかな明かりを落としている。壁には学年や寮ごとに分けられた制服が整然と並び、棚には筆記具、教本、実習用の上着、分厚い記録帳が置かれていた。
どれも新品で、どれもまだ俺の手になじんでいない。
「いらっしゃいませ」
奥の棚を整えていた店員が、こちらへ振り向いた。
淡い青色のエプロンを着た、落ち着いた雰囲気の女性だ。俺の手にある封筒の紋章を見ると、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ルミエールアカデミーにご入学の方でしょうか?」
「はい。ハヤト・キサラギです」
「ハヤト・キサラギ様。ご入学、おめでとうございます」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
合格通知を読んだときも嬉しかった。
けれど、誰かの口から「おめでとうございます」と言われると、それまで曖昧だった出来事が急に現実になる。
「……ありがとうございます」
声が少し低くなった。
照れくさくて、まともに店員の顔を見られない。
「では、こちらの読み取り板へ合格通知をお願いいたします」
言われたとおり、封筒を受付台の薄い板へ置く。
すると紋章から金色の光が広がり、店の奥の壁へ細かな文字が浮かび上がった。
制服一式。
実習用の上着。
筆記具。
基礎医学の教本。
薬草の形や性質を記録するための手帳。
通学用の鞄。
必要な品が、一つずつ表示されていく。
「……多いな」
思わず本音が漏れた。
全部持ち帰る自分の姿を想像する。両腕に箱を抱え、前も見えないまま公共車両へ乗ることになりそうだ。
店員はくすりと笑った。
「ご安心ください。ご購入いただいた品は、こちらの圧縮箱へお入れします」
彼女が受付台の下から取り出したのは、手のひらほどの小箱だった。
「この大きさに?」
「はい。家へ着いてから蓋を開ければ、元の大きさへ戻ります」
「だったら最初から、表示の横に書いておいてほしかったな」
つい口に出してから、失礼だったかと思った。
けれど店員は嫌な顔をせず、少し楽しそうに目を細めた。
「毎年、同じことをおっしゃる方がいらっしゃいます」
「俺だけじゃないのか」
「はい。皆さん、最初は驚かれます」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
俺だけが、何も知らない田舎者みたいに戸惑っているわけじゃない。
新しい場所へ来れば、誰だって最初は分からないことがある。
そう考えると、急に気が楽になった。
「筆記具は、いくつか種類がございます」
店員が棚から数本を取り出して、柔らかな布の上へ並べた。
「こちらは軽くて、長時間書いても手が疲れにくいものです。こちらは少し重みがありますが、細かな文字を書きやすくなっています」
俺は一本ずつ手に取って、指先へなじむ感触を確かめた。
試験勉強のときに使っていた鉛筆は、短くなるまで何本も使った。書き心地が悪いだけで、集中できない日があることも知っている。
「これにします」
選んだのは、派手な装飾のない細身の筆記具だった。
「実習でも使いやすそうです」
「堅実なものを選ばれるのですね」
「高いものを持っていても、使いこなせなければ意味がないので」
言ってから、自分でも少し生意気に聞こえた気がした。
だが店員は、今度は真剣な顔で頷いた。
「とても大切な考え方だと思います」
その一言が、なぜか心に残った。
次に手に取ったのは、厚い薬草記録帳だった。
表紙は深い紺色で、角には金色の補強が施されている。中を開けば、白い紙が何百枚も綴じられていた。
そこへ、薬草の名前、形、匂い、作用、扱うときの注意を書き込んでいくのだろう。
まだ何も書かれていない真っ白な紙を見ていると、少しだけ怖くなった。
知らない言葉ばかりが並ぶ授業。
周囲には、自分よりずっと賢く、ずっと経験のある生徒がいるかもしれない。
授業についていけなかったらどうする。
手帳のページを埋められなかったらどうする。
そんな不安が、また頭をもたげる。
俺はそっと表紙を閉じた。
「大丈夫だ」
小さく呟く。
不安だからといって、ここへ来た意味がなくなるわけじゃない。
分からないなら学べばいい。
書けないなら、書けるようになるまで続ければいい。
それは、今までだって同じだった。
「では、制服をご試着ください」
店員に案内され、俺は店の奥にある円形の台へ上がった。
足元に描かれた魔法陣が、淡い光を放ち始める。
細い光が靴先から肩までをゆっくりとなぞり、背丈や腕の長さ、肩幅を確かめるように何度か往復した。
その様子を見ていると、少しだけくすぐったい。
やがて壁に掛けられていた制服が、ひとりでに宙を滑ってきた。
「腕を通してみてください」
灰色の上着を受け取り、そっと袖へ腕を入れる。
布地が肩へ触れた瞬間、ほんのり温かくなった。
少し長かった袖が指先に合わせて縮み、肩の位置が自然に整っていく。背中や腰回りも、最初から俺の身体の形を知っていたかのようにぴたりとなじんだ。
赤いインナーベストを着る。
最後に、赤いネクタイが胸元へ収まる。
首元を整えられたとき、俺は思わず息を止めた。
「肩を回してみてください。腕を上げても、窮屈ではありませんか?」
言われたとおり、ゆっくり肩を回す。
腕を上げ、身体をひねる。
「……動きやすい」
「実習や治療の補助に入ることも考えて、動きやすく作られているんです」
目の前の鏡に、全身が映し出された。
そこにいるのは、見慣れた自分のはずだった。
センターで分かれた茶色の髪。
少し鋭く見える目。
緊張すると、すぐ口数が減る癖。
何も変わっていない。
それなのに、鏡の中の俺は、今までとは少し違う人間に見えた。
胸元には、金色の獅子と薬草の紋章がある。
赤い糸で縁取られたその紋章は、俺が獅子寮へ所属することを示していた。
おそるおそる触れてみる。
指先に伝わる刺繍の硬さが、合格したという事実を、ようやく現実のものに変えてくれた。
「俺が、これを着るのか……」
嬉しい。
そう言えばいいだけなのに、照れくさくて、出た声は妙に低かった。
店員が鏡越しに微笑む。
「とてもお似合いです」
「まだ、制服に着られてるだけです」
「そんなことはありません。しっかりなじんで――」
そこで、店員の言葉が止まった。
鏡越しに見た彼女の顔から、穏やかな笑みが消えている。
驚いたように、俺の顔と、受付台に置かれた合格通知を見比べていた。
合格通知の紋章は、もう役目を終えたはずだ。
それなのに金色の獅子だけが、かすかに脈打つような光を宿している。
「どうかしましたか?」
俺が尋ねると、店員ははっと息をのんだ。
次の瞬間には、何事もなかったように笑顔を作っていた。
「いえ。その……失礼しました」
けれど、視線だけはまだ俺の胸元に残っている。
まるで、制服の紋章ではなく、その奥にある何かを見ているようだった。
「あの動画の……医療戦士の。あぁ、なんでもありません」
「医療戦士?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。
「普通の医者でいいのに」
俺はただ、医療を学びたいだけだ。
誰かの苦しみを少しでも減らせる人間になりたいだけだ。
戦うだとか、そんな大げさな言葉を向けられる理由なんて、どこにもない。
店員は一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
けれどすぐに視線を伏せ、丁寧に頭を下げる。
「申し訳ありません。今の言葉は、どうかお気になさらないでください」
「いや、気になるだろ」
思わず言い返した、そのときだった。
「制服に着られているな」
背後から、冷たい声が落ちた。
さっきまで胸に残っていた不思議な感覚が、一瞬で引いていく。
鏡越しに振り返ると、少し離れた場所に同じ年ごろの男が立っていた。
隙なく整えられた黒髪。
皺ひとつない黒い上着。
上質な生地は店内の光を柔らかく反射し、右手の指には、家柄を見せつけるような銀色の指輪が光っている。
口元には、相手を最初から自分より下だと決めつけている者特有の、冷たい笑みが浮かんでいた。
見覚えがある。
入学試験の会場で、何度か視線がぶつかった男だ。
試験の結果が掲示されたとき、俺の名前が自分より上にあることを見て、露骨に表情を歪めていた。
あの目を、忘れるはずがない。
「……マルクス・ヴェルナー」
俺が名前を呼ぶと、男は満足そうに目を細めた。
「覚えていたか。光栄だな、ハヤト・キサラギ」
「なんだよ」
「なんだ、とは失礼だな。せっかく新しい制服を見に来てやったんだ。田舎者が身の丈に合わない服を着ていると、あまりにも目立つからな」
マルクスはゆっくりと近づいてきた。
値踏みするような視線が、俺の頭から足元までをなぞる。
「よく似合っているじゃないか。服だけはな」
「用がないなら、あっちへ行け」
「ずいぶん余裕だな。筆記試験で少し点を取った程度で、自分が選ばれた人間だとでも思っているのか?」
「そんなことは思ってない」
「どうだかな。結果を見たときは、随分と得意そうな顔をしていた」
「合格したら嬉しいだろ。普通は」
マルクスの口元が、わずかに引きつった。
俺が淡々と答えるほど、こいつの機嫌は悪くなっていく。
「お前の成績など、ただの偶然だ。試験問題との相性がよかっただけのことを、実力だと勘違いするな」
「偶然で取れる点なら、お前も取ればよかっただろ」
マルクスの目から笑みが消えた。
店内を流れていた穏やかな音楽が、不自然なほど遠く聞こえる。
「調子に乗るなよ」
「乗ってない。事実を言っただけだ」
「孤児院で古い教本を読んでいた程度のお前が、俺より高い点を取れるはずがない」
低く押し殺した声から、隠し切れない苛立ちが滲んでいた。
やはり、こいつが気にしているのは試験の成績だ。
自分より下だと思っていた俺の名前が上にあった。
それが許せないのだろう。
「何を読んで勉強しようが、正しい答えを書けば点は取れる」
「その生意気な口を、いつまで利いていられるだろうな」
マルクスは俺の胸にある紋章へ目を向け、鼻で笑った。
「そもそも、ルミエールアカデミーに入ったところで何になる。あそこは、聞こえのいい理想ばかりを並べる偽善者の集まりだ」
「……何?」
「世界中の病人を救う。医療に身分は関係ない。知識と光の力で未来を変える。よくもまあ、あれほど恥ずかしい綺麗事を並べられるものだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
制服を着たときに感じた不安とは違う。
腹の底から、熱いものが湧き上がってくる。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
「当然だ」
マルクスは俺の感情をわざと逆なでするように、口元を歪めた。
「治る見込みの薄い者へ時間を使い、何の見返りもない相手に手を差し伸べる。そんな行為に何の意味がある? 救う価値のある者を選び、確実な成果を出す方がよほど合理的だ」
「救う価値だと?」
「限られた薬も時間も、役に立つ者へ使うべきだと言っている。誰も彼も助けようとするから、結局は何も守れない。自分たちは正しい人間だと満足したいだけの連中を、偽善者と呼んで何が悪い」
俺は拳を握った。
爪が手のひらへ食い込む。
ここで怒鳴れば、こいつの思うつぼだ。
そう分かっているのに、聞き流すことはできなかった。
「最初から助からないと決めつけて、見捨てる方が正しいっていうのか」
「現実を理解していると言っているんだ」
「それは現実じゃない。ただ、自分が何もしたくない理由を並べてるだけだろ」
「田舎者が、俺に説教するつもりか?」
「説教じゃない。お前の言ってることが気に入らないだけだ」
マルクスは冷たい視線を俺へ向けたまま、さらに一歩近づいた。
そして、指先で制服の紋章を軽く弾いた。
「こんな紋章に、何の価値がある。あの学校も、そこに集まる連中も、俺から見れば――」
「ルミエールアカデミーをバカにするな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
店内の空気が震えたように感じた。
気づいたときには、俺はマルクスの手首をつかんでいた。
指先が白くなるほど強く握りしめている。
マルクスは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに挑発するような笑みを浮かべた。
「なんだ、その目は。俺を殴るつもりか?」
「その口を閉じろ」
「図星を突かれて腹を立てただけだろう。お前だって分かっているはずだ。どれだけ学んでも、救えない命はある。理想だけで病気が消えるわけじゃない」
「だから学ぶんだろ!」
胸に押し込めていた思いが、一気に言葉となってあふれた。
「何も知らないまま諦めるのが嫌だから、俺はあそこへ行く。今の俺にはできないことばかりだ。間違えるかもしれないし、手を伸ばしても届かないことだってあるかもしれない。それでも、助からないかもしれないって理由で、最初から何もしないよりはましだ!」
「綺麗事だな」
「綺麗事で何が悪い」
マルクスの目を、まっすぐに見返す。
「知識が足りないなら学ぶ。判断を間違えたなら、どうして間違えたのか考える。今の俺が何もできないからこそ、できるようになるために学校へ行くんだ。何もする気がないお前に、あの学び舎を笑う資格はない」
周囲の空気が一気に騒がしくなった。
近くにいた客たちが距離を取り、あちこちで動揺した声が上がる。店員も、困ったようにこちらを見ていた。
騒ぎが広がっている。
頭へ上っていた血が、少しだけ引いた。
俺は何をしている。
このまま殴り合いになれば、店に迷惑をかける。入学前から問題を起こしたことがアカデミーへ伝われば、せっかく手にした合格を失うかもしれない。
何より、感情のままに動いて周囲が見えなくなるようでは、医療を学ぶ以前の問題だ。
患者を前にしたときも、思いどおりにならないことはあるだろう。
焦ることも、怖くなることも、腹が立つこともあるかもしれない。そのたびに冷静さを失っていたら、正しい判断などできるはずがない。
俺は奥歯を噛みしめ、マルクスの手首を放した。
「……もういい」
マルクスはつかまれていた手首をさすり、薄く笑った。
「怖くなったか?」
「違う」
乱れていたネクタイを直し、制服の上着を手で払う。
「ここでお前を殴っても、何も変わらない。それに、この制服を着たまま問題を起こしたくない」
「自分の立場を理解する程度の頭はあるらしいな」
「お前は最後まで一言多いんだよ」
「覚えておけ、ハヤト・キサラギ」
マルクスの声には、最後まで相手を見下す響きがあった。
「努力すれば何にでもなれると思っている人間ほど、現実を知ったときの壊れ方は惨めだ。お前があの学校で、どこまで綺麗事を貫けるか見ものだな」
「俺がどうなるかは、お前が決めることじゃない」
「なら、せいぜい足掻け。偽善者の学び舎でな」
マルクスは冷たい笑みを残し、その場から離れていった。
店内のざわめきが少しずつ収まっていく。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
身体の奥では、まだ怒りがくすぶっている。拳を開こうとしても、指がうまく動かなかった。
深く息を吸う。
新しい布と紙の匂い。薬草を使った香料の、わずかに甘い香り。店内を流れる穏やかな音楽。
ひとつずつ確かめるように周囲へ目を向け、ようやく呼吸を整えた。
試着台の鏡に映った顔は、ひどいものだった。
眉間には深い皺が寄り、頬は赤くなっている。名門校の制服を着ているのに、少しも立派には見えない。
「何やってるんだ、俺は……」
悔しさが込み上げた。
マルクスに言われたことだけではない。
挑発に乗り、周囲が見えなくなった自分が情けなかった。
入学試験に合格しただけで、少しは前へ進めたつもりになっていた。けれど実際には、知識以外にも身につけなければならないものがいくつもある。
制服を着れば、その瞬間から理想の医療者になれるわけではない。
怖くても考える力。
腹が立っても周囲を見る冷静さ。
自分一人の感情より、守るべきものを優先する強さ。
今の俺には、どれも足りていなかった。
それでも、胸にある紋章を外したいとは思わない。
俺は制服を脱ぎ、汚れや傷がついていないことを確かめた。上着の皺を手のひらで丁寧に伸ばし、赤いネクタイと一緒に箱へ収める。
その様子を、さっきの店員が黙って見守っていた。
箱の蓋を閉じたところで、彼女はそっと圧縮の術をかける。
制服も教本も筆記具も、光に包まれながら手のひらほどの箱へ収まっていった。
「お騒がせして、すみませんでした」
俺が頭を下げると、店員は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お気になさらないでください。ですが、どうかお怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
「そうですか」
彼女はほっとしたように笑った。
その表情を見て、さっきまでの怒りがさらに恥ずかしくなる。
「……あの、さっきの言葉」
鞄へ圧縮箱をしまいながら、俺は尋ねた。
「医療戦士って、何なんですか」
店員の指先が、わずかに止まった。
答えを待った。
けれど彼女は、すぐには口を開かなかった。
「今はまだ、知らないままでもいいのかもしれません」
「それ、答えになってませんよね」
「そうですね」
困ったように微笑んだあと、彼女は受付台の上へ視線を落とした。
「ただ、キサラギ様。どんなことがあっても、今日おっしゃった言葉を忘れないでください」
「今日、俺が言った言葉?」
「はい。最初から何もしないよりはましだ、と」
胸の奥が、わずかに揺れた。
自分では、ただマルクスへ言い返しただけだと思っていた。
けれど店員は、その言葉を大事なもののように受け取っている。
「忘れません」
俺は短く答えた。
それ以上、答えをもらうことはできなかった。
店を出ると、ルミナス市の空は茜色に染まり始めていた。
西へ傾いた日差しが硝子張りの建物へ反射し、街全体が巨大な光の結晶のように輝いている。半透明の通路を流れる光は朝よりも鮮やかになり、夕暮れの空へ細い帯を描いていた。
大通りの先には、ルミエールアカデミーの白い尖塔が見える。
夕日を受けた校舎は赤金色に染まり、朝に眺めたときよりも遠く、そして大きく感じられた。
俺は鞄の上から、制服が入った箱へ触れた。
合格通知を受け取っただけでは、まだ何者にもなれていない。
あの制服にふさわしい人間になれるかどうかは、これからの俺次第だ。
マルクスの言葉が、耳の奥に残っている。
どれだけ学んでも、救えない命はある。
理想だけで病気が消えるわけではない。
そんなことは、俺だって分かっている。
努力すれば、必ず望んだ結果を得られるとは限らない。必死に手を伸ばしても届かず、自分の無力さを突きつけられる日が来るのかもしれない。
けれど、救えないかもしれないことと、救おうとしないことは違う。
何も知らないまま諦めたくない。
できないことを、できないままで終わらせたくない。
俺は夕暮れの中に立つ学び舎を、まっすぐに見上げた。
「見てろよ」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。
次にマルクスと会ったとき、胸を張って言い返せる自分でありたい。
俺はここで学ぶ。
知識を身につけ、何が正しいのかを自分の目で確かめる。
そして、いつか誰かの手を取れる人間になる。
胸の内ポケットで、合格通知の紋章がかすかに熱を持った。
医療戦士。
あの店員が口にした、聞き慣れない言葉が頭から離れない。
医者を目指す俺に、どうしてそんな呼び名が向けられたのか。
その答えを、まだこのときの俺は知らなかった。
十二月半ばの獅子寮は、夜が更けても共有スペースの灯りが消えなかった。窓に映る俺たちの向こうで、ルミナス市の光が白く滲んでいる。紅茶の香りが薄れた机には、開いた教材と、何度も消して書き直したノートが並んでいた。 テオはエマが答えを隠したページを見下ろし、鉛筆の先を止めた。「まず葉の状態を確かめる。それから、保存する場所を選ぶ」 エマが指を退ける。答えを照らし合わせたテオは、小さく息を吐いて丸をつけた。以前なら正解するたび騒いでいたのに、今はすぐ次の問いへ目を移している。「覚えたね。そこ、もう大丈夫」「エマの声つきで頭に入ってる」「試験中まで注意されたくないでしょ」 テオが笑い、机の端へ寄っていた彼女のカップを手元へ戻した。その自然な仕草に俺も口元を緩め、自分の教材に向き直る。最後まで残った付箋は二枚。首席を守りたいという気持ちを、今はこの一問を確かめることに集中させた。 試験期間は、思っていたより早く過ぎた。答案に向かうたび、三人で読み直した箇所が浮かぶ。最後の科目を終えてからも確認用のノートを鞄から出せないまま、俺たちは結果発表の日を迎えた。 学内の掲示画面には、人の輪ができていた。俺はテオとエマが隣にいるのを確かめ、一年の一覧を下から辿った。見慣れた名前を通り過ぎ、最上段で視線が止まる。 ハヤト・キサラギ。学年首席。 すぐ下には、二年への進級決定の文字もある。画面の白い光を見つめたまま、俺は鞄の持ち手を握り直した。嬉しい、と言葉にするより先に、ようやく机から立ち上がれたような安堵が広がる。眠気を追い払いながら解いた問題も、二人と飲んだ紅茶も、ちゃんとここにつながっていた。「……よし」 隣ではテオが袖口をつかみ、一覧の途中から目を動かせずにいる。俺は彼の名前を見つけ、画面を指した。「テオ、そこ。進級決定って」 テオが身を乗り出した。名前を読み、右側の表示を読み、もう一度名前へ戻る。やがて袖を握っていた指がほどけた。「俺も、二年になれるんだよな」「なれるわよ。わたしも一緒」 エマが自分の結果を示すと、テオは彼女の手を取った。勢いよく何か言いかけた口を閉じ、包んだ手を一度だけ揺らす。「ありがとな。何回も教えてくれて」「ちゃんと覚えたのはテオでしょ」 エマは照れたように画面へ顔を戻したが、その手は離さなかった。「わたしも、薬の
獅子寮の共用机には、冬の午後の日差しが斜めに差していた。カップから立つ柑橘の香りが、暖房の風に薄まっていく。俺は問題集の余白に小さく印をつけ、正解したはずの式をもう一度たどった。答えが合っていても、途中で迷った箇所は残したくない。四寮合同一年生総合試験の表紙をめくるたび、首席という二文字が頭をよぎる。「ここ、どうして順番が逆になるんだ?」 向かいでテオの鉛筆が止まった。エマは自分の教材に指を挟み、彼のノートをのぞき込む。「逆にしたんじゃなくて、こっちを先に確かめてるの。ほら、この条件」 細い指が、テオの見落とした一行をなぞった。彼は額にかかった髪を払い、消しゴムを動かす。紙を破りそうな勢いになると、エマがノートの端を押さえた。「ああ……じゃあ、さっきの問題も同じか?」「そう。気づいたなら、そっちも直しておこう」 叱る声を待っていたわけではないのに、その穏やかな応答に俺まで頬が緩んだ。テオもふざけず、前のページを戻って式を書き直している。「落第回避まで、あと何問?」「数える時間で一問解けるわ」「はいはい。研究責任者になる人は厳しいね」「なるために勉強してるの。わたしも、まだ分からないことばかりよ」 エマの教材には、光の病に関わる項目だけ違う色の付箋がついていた。自分の目標を口にしたあとも、彼女はテオの鉛筆が動き出すまでページを閉じない。肩が触れそうな距離で、二人が同じ式を目で追っている。「この二人、ずいぶん仲良くなったな」 紙の擦れる音に紛れるつもりで呟くと、エマが顔を上げた。「わたしたちの見物より勉強に集中して!」「してるって。ちょっと目を休めただけ」 慌てて問題集へ戻った俺の指先が、さっきと同じ行を探す。テオが笑いをこらえて鼻を鳴らし、エマも口元だけを緩めた。 一区切りつけて自室に戻るころには、窓の光が机の脚まで下がっていた。医療棟で二人と合流するまで、まだ少し時間がある。俺は保管していた封筒を取り出し、カードの角に指を添えた。 紙は薄いのに、なくなったときには、そこに書いた言葉まで取り戻せない気がした。見つかったと知らせたときのミナの声が耳に戻る。渡す前から、ずいぶん心配をかけてしまった。 引き出しの内側、手前の浅いくぼみに封筒を寝かせた。端が引っかからないよう指でならし、閉める直前にもう一度位置を確かめる。クリスマスに
ペン先が止まったまま、教材の余白に小さな染みが広がっていた。指を動かしかけても、上着の空のポケットが気にかかる。何度確かめても、ミナに渡すはずのカードの角は触れない。 獅子寮の学習室では、白い窓枠に銀の飾りが揺れていた。卓上のツリーが淡く瞬き、冷めかけた紅茶から甘い香りが立っている。パーティを待つこの部屋で、俺だけが何かを置き去りにしたように、同じ設問から進めずにいた。 向かいでエマが参考書を動かすと、テオは無言でノートを寄せた。腕が触れないほどの隙間が二人の間にある。普段なら気にも留めない距離が、今夜は妙に目についた。「ミナに渡すクリスマスカード、なくしたんだ」 口にすると、二人の手が止まった。「何でそんなこと黙ってたんだよ!」 テオが顔を上げた。思わず背筋が伸びたが、俺もペンを置いて彼に向き直った。「自分で見つけられると思った。でも、見つからない。二人にも手を貸してほしい」「最初から言えよ。ずっと隣にいたんだからさ」 強い声のあとで、テオは俺の教材へ目を落とした。解答欄の白さを見られた気がして、俺は小さくうなずいた。「マルクスは? ミナの検査結果を改ざんした奴だぞ。俺、蛇寮の近くを探ってくる」「気になる。でも、カードの件まであいつだと決まったわけじゃない」「分かってる。まず探す」 エマは端末に学内図を開き、俺のほうへ差し出した。「最後に確認したところから、順番に教えて。覚えていない部分は、そのままでいいから」 俺の答えに合わせ、通路や部屋に印がついていく。曖昧な記憶を無理に埋めようとすると、エマは指を止めて待ってくれた。「焦るわよね。大切なものだもの。でも、探す場所は整理できるわ」 頭の中で何度も繰り返していた道順が、画面の上では限られた範囲に収まった。なくしたことを考えるばかりで、探し方まで狭くなっていたのかもしれない。「ありがとう。俺は医療棟を確かめてくる。終わったら合流しよう」 医療棟の廊下は寮より少し涼しく、窓にはルミナス市の灯りが細かく映っていた。病室へ入ると、ミナが読んでいた本から顔を上げた。その笑顔に、手ぶらで来たことが急に申し訳なくなる。「渡すつもりのカードをなくしたんだ。この辺りも探していい?」「わたしへの?」 ミナは本に栞を挟み、ベッドから足を下ろした。「それなら、わたしも探す。椅子の下、奥まで
獅子寮の談話室には、湯気の立つ茶の匂いが漂っていた。白いテーブルに端末の青い光が映り、俺の手元で教材の影が薄く伸びている。窓の外では、校舎を結ぶ通路の飾りが夕暮れに輝き始めていた。そちらへ目をやりかけ、俺は指に触れる紙の端をめくった。 向かいのエマが示した箇所を、テオがペンで追う。さっきまで首をひねっていた彼は、三つの項目を囲むと、得意そうに顔を上げた。「これ、パーティの準備と同じ順番で覚えればいいんじゃないか? 場所を確認、必要なものを用意、それから動く。そうだ、当日の席なんだけどさ」 覚え方には感心したものの、最後のひと言で俺のペンも止まった。エマは苦笑し、教材の続きを指した。「席は休憩のときに決めましょう。今は、何を確認するのか答えて」 彼女の端末の脇には、服の色を書き留めた小さなメモがある。教材に挟まれかけたそれを丁寧に避ける様子からも、パーティを待ち遠しく思う気持ちが伝わってくる。だからこそ、今のうちに勉強を進めたいのだろう。俺も同じ気持ちで空欄に向き直った。 テオは二問続けて答え、間違えた箇所には印をつけた。ところが次の説明を読みかけたところで、また窓の飾りへ目を向ける。「あの色、エマの服にも合いそうだよな。俺も何かそろえたら――」 エマの指が、ページの端を押さえたまま動かなくなった。先ほどの笑みが消え、言葉の間に短い息が入る。「わたしも楽しみにしているわ。でも、二年生になったら本格的な医学生の訓練が始まるのよ。今より厳しくなるのに、集中できないたびに楽しい話へ逃げるつもり?」 テオは口を閉じた。ペンの先が紙から浮き、そのまましばらく戻らない。俺が声をかけるより先に、彼は椅子の背から身を起こした。「逃げてるって言い方はないだろ。ちゃんと考えて答えてるし、分からないところも聞いてる。少し話しただけで、何も考えてないみたいに言うなよ」 エマの眉が寄った。彼女が戻したいのは勉強の話で、テオが否定したいのは自分の取り組み方への決めつけなのだと思う。けれど、互いの顔を見据える二人には、そのずれを確かめる余裕が見えなかった。「その少しが何度も続くから、わ
獅子寮の共用ラウンジには、温めたミルクの甘い匂いが漂っていた。白い壁に照明が淡い金色を落とし、窓の向こうではルミナス市の明かりが重なっている。俺はマグカップを片手に、端末に表示したクリスマス・パーティの案内を眺めていた。開催日を指でなぞると、その数字の隣にミナの笑顔を置いてみたくなる。「ハヤト、さっきからそこばっかり見てるぞ。もう当日の服まで決めた?」 向かいのテオが身を乗り出した拍子に、隣のエマの袖に肘が触れた。彼はすぐに腕を引き、彼女の前へカップを寄せる。取っ手を受け取ったエマは、抗議する代わりに自分の膝に置いていた端末を少し傾け、テオにも画面が見えるようにした。「服はまだ。まずは、ミナと一緒に過ごしたいと思ってる」 口にしてみると、ぼんやり眺めていた日付が急に近くなった。会場に来られるかは、まだわからない。それでも、クリスマスに誰の隣にいたいかは決まっている。 テオは俺の画面をのぞき込むのをやめ、背もたれに肩を預けた。「いいな。俺もエマとゆっくり過ごしたい。いつもと違う格好で待ち合わせとかさ。同じ寮なのに、ちょっと遠くから来たふりして」 エマがカップの縁から目を上げた。呆れるかと思ったのに、彼女の唇は柔らかくほどけていた。「遠くから来たふりはいらないけれど、待ち合わせはしたいわ。着替えが終わるまで廊下で待たれるより、落ち着いて準備できるもの」 テオが早くも待つ場所を考え始める。その横で、エマは彼の袖に付いた小さな糸くずをつまみ取った。何でもない仕草なのに、二人の間だけ空気が温かく見えて、俺までカップの陰で口元を緩めた。 ラウンジの扉が開き、鹿寮のアキト先輩が顔を出したのは、そのときだった。俺たちを見つけると片手を上げ、空いている椅子の背に指を掛ける。「楽しそうだね。何の相談?」「クリスマスの話です。先輩、ちょうどよかった。光の護身術の練習も、一度――」「その相談より先に、クリスマスの重要事項を伝えたいな」 先輩は素早く椅子を引き、俺の端末に視線を落とした。その切り替えの鮮やかさにテオが吹き出す。俺は持ち上げかけた手をカップへ戻し、先輩に続きを促した。「そんなに構えなくても、まだ日程も言ってませんよ」「日程が決まる前が大事なんだよ。ハヤトに見てもらうとなったら、休憩まできっちり管理されそうだからね」 先輩は冗談めかして肩をすく
「ちょっとあんたたち、いつまで抱き合ってるのよ!」 甲高い声が響いても、腕をほどくには少し時間がかかった。胸元に寄せられたミナの身体が、呼吸に合わせてわずかに動く。病衣越しのぬくもりも、襟に触れる柔らかな吐息も、離れた途端に失われそうで、指先が布をつかんでいた。 ミナに袖を引かれ、ようやく力を緩める。覗き込んだ顔には疲れが残っていたけれど、俺を見上げる目は開いていた。背中に手を添えて枕へ戻すと、髪が白いカバーに広がる。くぼんだ寝具から、二人分の温かさがゆっくり逃げていった。 その向こうで星が揺れた。ベッド脇に置いた杖が、誰にも支えられず浮き上がっている。先ほど聞きそびれた声の主が、今度こそこちらを向いていた。「杖が喋った!」 テオがエマの肩から手を離し、指を突き出した。涙の跡が残る顔を見上げる間に、杖が一直線に飛ぶ。彼の上腕を軽く叩き、かばおうとした腕の隙間から反対の肩も小突いた。痛いというより、どちらを守ればいいのかわからないようで、テオの肘が忙しく上がったり下がったりする。「あんた、指をささないでよ!」 声の大きさでは杖も負けていない。テオがエマの後ろへ身を寄せると、彼女は助けようとして伸ばした手を途中で止め、唇を結んだ。その肩の震えが目に入り、俺まで口元を押さえる。白い壁に映る二人と一本の影が、妙にせわしない。「杖さん、かわいい」 隣から届いたかすかな声に、杖の動きが止まった。テオへ向けていた柄を下げ、今度はそっと空気を滑って戻ってくる。ミナが布団から指を出すと、その手に触れる寸前で速度を落とした。「あなた、見る目があるじゃない」 先ほどの剣幕はどこへ行ったのか。甘い声とともに星が傾き、ミナの指の下へ収まる。掛け布団に淡い光がにじみ、指が動くたびに小さな影も揺れた。俺の袖をつかむことしかできなかった手が、今は何かをかわいがっている。それを眺めているうち、つられて指先の力が抜けた。 ミナの喉から小さな笑いがこぼれた。長くは続かず、すぐ枕に頬を預けたけれど、その口元にはまだ笑みがある。寝具を直すふりで少し身をかがめ、俺も同じ高さから星を見た。「こんなミーハーに作ったつもりじゃなかったんだけど」 アキト先輩が申し訳なさそうに手を伸ばし、杖を取り上げるか迷ったように引っ込めた。説明を探す口が一度開いて、結局そのまま閉じる。作った本人まで遠慮